大同生命は今年で創業117周年を迎えます。当社の礎を築いた大阪の豪商・加島屋。
その創業から現在の大同生命に至るまでの約400年の歩みをご紹介します。

1625

創業前史

加島屋の歴史とビジネスモデル

加島屋の創業は初代当主・広岡久右衛門正教(きゅうえもん・まさのり)が大坂・御堂前で精米業を始めた1625(寛永2)年と言われています。その後、加島屋は両替商を営み、「大名貸」と呼ばれる諸藩に対する融資など、現代風にいえば企業等を相手にした「ホールセールバンキング」によって、大坂有数の豪商に成長しました。その取引は「全国300藩」と称された諸藩の3分の1にも及びました。加島屋が店を構えた肥後橋(大阪市西区)には、現在も大同生命の大阪本社ビルがそびえています。

土佐堀川畔の広岡家本家(加島屋) 土佐堀川畔の広岡家本家(加島屋)

新選組の借用書

旧幕府軍と新政府軍による「鳥羽・伏見の戦い」が起こる直前の1867(慶応3)年12月、加島屋は新撰組の要請に応じ、金400両(「1両=5万円」換算で約2,000万円)を貸し付けました。その借用書がいまも大同生命に残されてされており、局長の近藤勇、副長の土方歳三の署名も見られます。

新選組の借用書

幕府を支える豪商

江戸期の大坂商人は、全国各地の藩と密接な取引を行う一方、幕府とは一線を引いていたと言われていましたが、大同生命に残れている「御用金二十万両之控(ごようきん・にじゅうまんりょう・の・ひかえ)」「御用日記(ごようにっき)」といった当時の史料からは、米市場をめぐる幕府の金融政策に、加島屋をはじめとする大坂の豪商の資金力やノウハウが期待されていたことがうかがわれます。

幕府を支える豪商

1902

大同生命の創業

1902(明治35)年、3つの生命保険会社が合併して大同生命は創業しました。社名は「小異を捨てて大同につく」の格言から命名されたと言われています。
初代社長には、加島屋の第九代当主・広岡久右衛門正秋が就任しました。創業時に掲げられた「加入者本位」「堅実経営」の精神は、「社是」として今日に至るまで当社に受け継がれています。

社名決定前の合併契約書 社名決定前の合併契約書

初代社長 広岡久右衛門正 初代社長 広岡久右衛門正秋

加島屋を支えた広岡浅子 加島屋を支えた広岡浅子

当社の創業を語る際に忘れてはならないのが、広岡浅子の存在です。
浅子は京都の出水三井家(でみず・みついけ)に生まれ、17歳(数え年)の時、正秋の兄・信五郎と結婚します。
明治維新の激動で、危機に瀕した加島屋の立て直しに浅子は奔走。七転び八起きを超える「九転十起(きゅうてん・じゅっき)」のがんばりで、加島屋を、炭鉱・銀行・保険など近代的な企業グループへと変える中心的な役割を果たします。
特に生命保険事業への参入は、浅子の英断によるところが大きかったと伝えられています。また、浅子は女子教育にも心血を注ぎ、日本女子大学校(現在の日本女子大学)の設立にも尽力しました。

特設サイト 大同生命の源流 ~ 加島屋と広岡浅子 ~

中川小十郎

大同生命の創業において中心的な役割を果たしたのが、現在の立命館大学の前身である私立京都法政学校を設立した中川小十郎です。中川は1898(明治31)年、広岡浅子に招かれて加島屋の事業に参画し、当社の創業に向けた3社合併にあたっては、その中心人物として活躍しました。

中川小十郎

1909

創業後の躍進

創業後に経営の舵取りを担った第二代社長の広岡恵三(浅子の娘婿)は、1909(明治42)年から1942(昭和17)年までの33年間にわたり社長を務めました。恵三は、販売網の整備や募集規程の制定、代理店募集制度の導入などの改革を通じて、経営の近代化に向けた布石を打ち、大同生命の躍進に貢献しました。
創業40年を見届けて退任した広岡恵三に代わり第三代社長に就任した広岡久右衛門正直は、太平洋戦争による国を挙げての統制時代となり、生保業界にも整理統合の波が押し寄せました。しかし正直はあくまで時流に屈せず経営にあたり、40年の伝統を守り抜きました。

第二代社長 広岡恵三 第二代社長 広岡恵三

大阪肥後橋に本社が完成

1925(大正14)年、著名な建築家で、広岡恵三の妹・一柳(ひとつやなぎ)満喜子の夫でもあるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により、本社ビル(旧肥後橋本社ビル)が完成しました。ネオ・ゴシック様式を装った優美なデザインのこのビルは、当時の大阪を代表するランドマークとなりました。その後、1993(平成5)年に竣工された現在の大阪本社ビルは、かつてのビルのデザインを踏襲し、当時のたたずまいを今も残しています。

大阪肥後橋に本社が完成

戦時下に貯蓄を奨励する広告

太平洋戦争下の日本では、国策として貯蓄運動が奨励されており、大同生命でもより低廉な保険料の「実費養老保険」や、貯蓄の増強と生命保険の新分野開拓を目指して開発した無診査の「興亜保険」を販売していました。

戦時下に貯蓄を奨励する広告

1971

大同生命の「挑戦と創造」

高度経済成長に伴って業界内の販売競争が激化すると、大同生命では、より安い保険料で高額の保障を可能とする「定期保険」が経営者層のニーズに合った商品であるとの考えから、「定期保険路線」に大きく舵を切りました。1971(昭和46)年6月に法人会の「経営者大型総合保障制度」の受託を開始、同年11月には納税協会でも同制度の受託を開始しました。「経営者大型総合保障制度」は、AIU株式会社(現在のAIG損害保険株式会社)との提携により、「業界初の生損保セット商品」を開発、当時としては破格の「最高保障額1億円」を実現した画期的な商品でした。
1974(昭和49)年にはTKC全国会と業務提携し、1976(昭和51)年に受託した「TKC企業防衛制度」は「定期保険路線」をより強固なものにしました。その後も税理士会等の各種団体と提携し、その制度商品を販売するという独自のビジネスモデルを確立しました。

独自のビジネスモデルが評価され、ポーター賞を受賞

ポーター賞は独自性のある戦略により、高い収益性を維持・達成している企業を表彰するもので、一橋大学大学院(国際企業戦略研究科)が創設しました。大同生命は、中小企業経営者を対象に、法人のリスクマネジメントのために最適な保険商品を提供するというビジネスモデルの独自性が高く評価され、2004(平成16)年に生命保険会社で初めて同賞を受賞しました。

ポーター賞を受賞

創業100周年を迎えた2002(平成14)年には、生命保険業界初となる「相互会社から株式会社への組織変更」と、東京証券取引所市場第一部および大阪証券取引所(現在の大阪取引所)市場第一部への上場を果たしました。そして、2004(平成16)年には持株会社「T&Dホールディングス」を設立、太陽生命・T&Dフィナンシャル生命とともにT&D保険グループの中核会社としての道を歩み始めました。

東京証券取引所への上場 東京証券取引所への上場